|
■社歴を語る■
|
創業当時の顔ぶれ(昭和37年)
…………………………………
|●社歴を語る●|長文です
…………………………………
会社の歴史を紹介します。まず"和光"という社名は、おやじが、東京銀座に行って”和光"を見、あのように高級品を扱って、お客さまが来てくれるようになりたい、というところから付けたと聞いてます。また、この"和光"は、国語辞典にも載ってますがおだやかな威光、なごやかな光とあり、ギラギラした光ではありません。そういう意味でも気に入ったようです。ロゴは、各ページの上段に貼りました。マークは、おやじのデザイン。社名ロゴ[和光]は、おふくろと私のオリジナルデザインです。おやじは、佐世保生まれで佐世保育ち。夜間高校に通いながら、建具屋に勤めその時に、のみを使うことから、木彫に目覚めたということでした。どこぞの彫刻家の弟子になることもなく、我流といえば我流。作品は抽象的なものは少なく、写実的、特に人物の彫刻に熱心だったと思う。晩年は、仏像と裸婦の彫刻が主でしたが、神社に奉納したものもあり、神様から仏様まで彫った人は、そう、ざらにはいないと思う。そういう、おやじだったので、軍隊から帰ってきてから、木彫をやりたいと意志はさらに強くなり、佐世保からおふくろと、福岡県大川市に。大川が家具の産地であったこともあり、生計を立てる地としたらしい。しかし、心ざした木彫だけでは生計は苦しく、おふくろが会社を起こすこととなる。和光木彫工芸社の誕生である(1962年/昭和37年)。社長がおふくろ。会長としておやじ。知らない人は、おふくろは後家さんと思っていた人もいた。しかし、この、おふくろ、のちに「大川の女傑」と言われるまでになった。それまでも、たんすの部品として、リレーフ(浅彫の彫刻)等の下請けはやっていたようですが、婚礼時期の春と秋に注文が殺到するものだから、その人数は確保。しかし、冬と夏は暇となる。それで、冬と夏だけは、雑誌入れとか吊棚を作るようになった。もちろん彫刻入り。知らない土地での無一文からのスタートだけに、相当の苦労だったに違いない。朝、床に入っている時から、今日の仕事の段取りを二人で言い合っている。それが、一息済んでから起床となる。私はそれで目覚めていたことを覚えてます。借金経営が続くも、会社は次第に大きくなり、一番多いときで50名という大所帯。製品も欅民芸の小物作りが増えてました。彫刻するおやじは、材料には業者もびっくりするほど詳しく、また建具で培った腕で、ずばらしい製品を次々と出した。でも、製品がいくら素晴らしくとも、売れないことには苦しくなる。市場無視、ここが芸術家というところだろう。そうこうしていたら、そのころトータル家具というものが流行って、たんすは無論のこと、下駄箱、鏡台、飾り棚、ちり入れまで、全部で15点セットというものもあらわれ出し、婚礼家具のメーカーさんから、小物をうっとこの製品と揃いで作ってもらえないだろうか?と相談があった。(私は、ここら辺から高校卒業後すぐに仕事を手伝うようになった)友人ということもあって引き受ける。これが、その後箪笥を作るきっかけとなることは、私は予想だにしなかった。小物にオリジナルのものができた。なんとおやじは、それに合わせて箪笥を作ってくれと小物を発注した友人に。それも和たんす、昇たんす、洋たんすの各1本づつ。しかも、それ作り方のノウハウまでも。私は、先方の工場に何度も足を運んで、内部構造まで教えてもらった。もちろん、当時いた職人もです。当時は、小物を作るだけの機械、スペースしかなかったので、大型のたんすを作るのはたいへん骨がおれた。自社ブランドの欅のたんすが完成した。また、欅の飾り棚もよく売れた。私も数点デザインをして好評を得た。この勢いで、工場2箇所、事務所と、バラバラにあったものを現在のところに一諸にすることになった。(1973年/昭和48年)しかし、いままでの場所からだいぶ離れた為、残った社員は、私含め5名ほど。急募して15名ほどにはなったが、ズブの素人ばかり。私が会社に入って一年目のことであった。とにかく、やるしかない。でも、機械も新型が据わったこともあり、はかどらない。新米の私がズブの指導もせにゃならない。そうこうしていると、欅飾り棚の大量発注を受けた。1年あまりは、生産生産で追われ、かなりな売上げも記録した。これなら、すぐ借金も返せる、そう思った。ところが、素人集団で作ったできの悪さとオイルショックのWパンチで発注が、さっぱり来なくなった。それも、卸屋、一箇所だけに出荷していたので打撃も大きい。「大川にないものを作ろう」と、おやじは常日頃から言っていた。それで、当時は無かった桐たんすを始めることとなった。しかし、これも手探り。販路は一箇所に大量に降ろすのではなく、危険分散の為、家具店に直となった。この時に、おふくろは、「桐たんすのブームを作りだす」と言明するほど意気込んだ。家具としては最高技術のいるものであり、木工業としては行き着くところに行き着いてこれ以上も、これ以下もない、これを作るんだ!売るんだ!と言ってました。おやじは60才過ぎてましたが、私らと、トラックで九州、四国、中国と各家具店、つぶさに回りました。幸いなことは、南九州では当時、東京の桐たんす屋が倒産して、どこの家具店も困ってました。南九州はたちどころに、私らの製品が席巻しました。当時は、高速道路などなく、販路拡大は至難なことでありました。桐たんすにも、一部に彫刻を入れてました。しかし、回った家具店の評判は悪く彫刻入りは次第に無くなっていきました。それから数年すぎ。工場内の一部をショールームに改装。それまでも、一部のお客様は倉庫でいいから、製品見せてくれと来社してありました。それが、次第に多くなり、ゴミをかぶったビニールを上げてでは、あまりに失礼と、営業担当だった弟とおふくろが発案。私は工場での生産が主でしたから、製品を置く場所がさらに狭くなるので、あまり気乗りはしなかった。しかし、このショールームはヒットで、おふくろの「桐たんすのブームを作りだす」が軌道に乗りだした。桐たんすだけになって、社名に木彫は、おかしいのではと、社名を変更。家具では最高峰、これ以上も以下もない。そのものずばり"総桐箪笥和光"とすることとなり、個人から法人に。有限会社総桐箪笥和光と1986年(昭和61年)になりました。私自身は、工場の生産、営業と回され、その頃は、経理を携わってました。経営参謀役として、このころから、社長の補佐が主となってました。翌1987年(昭和62年)に、自宅と工場内にあったショールームを新築。それまでの自宅は、誰が見たって倉庫にしか見えないもの、ここが自宅とは思わなかった人もいた。自宅を新築するのに、おやじ、おふくろは、瓦の屋根が希望だったが、1階事務所、2階ショールーム、3階自宅とすると、どうしてもビル式となり思いとどまってもらった。自宅とショールームが一諸なのは、365日営業ができること、また、工場も隣で、私らとしては理想的となった。1989年(平成元年)おやじ他界。1991年(平成三年)おふくろ他界。バブルはじけて大不況。家具業界は大嵐。しかし、私が社長になって10年目。なんとか荒波を越えて、平成13年4月2日に、組織変更して、”株式会社”になるのも皆様のごひいきのお陰、また、先代のお陰と感謝するばかり。桐製品を通じを、皆様に喜んでいただけるよう、製品作りに勤めるつもりです。"株式会社総桐箪笥和光"を、よろしくお願い致します。
|
|
おやじ(会長)・・・平成元年没 おふくろ(社長)・・・平成3年没 |
|
創業当時作っていた |
|
木彫の鏡 |
|
木彫の鏡 |
|
木彫のつり棚 |
|
木彫の姿見 |
|
木彫のドレッサー |
|
ケヤキのサイドボード |
|
ケヤキのテーブル |
|
ケヤキの茶室セット 組立式で、ハワイにも一部出荷 していたもの。 |
|
ケヤキの茶棚 |
|
ケヤキの婚礼セット。
中央のタンスが、 |
|
初期の桐たんすには |
|
よろしくお願い致します |